2009年03月27日

レッツ・エンジョイ・アルファダンス

アルファロメオと聞いて、どんな車だと想像されるでしょうか?

歴史の古いメーカーだし、イタリアの車ですから、飛びっきりスポーティ
なイメージがあるかな?

それとも故障が多くて、遊び人的なイメージもあるかもしれない・・・

レースに参加して来た歴史もあるので、モータースポーツの色合いも
あるメーカーですが、でも、私個人としましては同じ”スポーティ”でも
例えばホンダのタイプRが持っている様な「体育会系」な方向ではなく、
もっと「文科系」なスポーティさだと思っております。

目を三角にして峠やサーキットを攻めたりする車ではないと・・・

実際には勿論アルファで体育会系なスポーティさを愉しんでおられる
方も大勢おられますので、それを否定している訳ではございません。

私は1963年生まれですので、物心ついて自動車に興味を持った頃と
言うのは50年代、60年代の自動車が精彩を放っていた頃でした。

現在の様な大径ホイールや扁平率の低いタイヤなんぞは存在せず、
ドーナッツみたいにふっくらとしたタイヤが普通でした。

また、金属部品が多く、重量的には不利でしょうが、機械としての存在
感はやはり現代の自動車よりも昔の車の方があったように思います。

147を初めて運転した時

現代の自動車の品質の内側に、昔の自動車の味わいが宿っている車
だなぁ~、と思いました。





1600の147のタイヤは15インチの60扁平タイヤで、ちっとも凄くもなん
ともない脚です(笑)。

また、サスもふんわり柔らかで、目を三角にして走る事が大好きな方に
は不評な味付けになっております。

だから、軽快に吹け上がり、吠えるエンジンとクイックなハンドリングに
のせられて、乱暴な運転をするとピッチングやロールで147は不安定
な挙動となってしまいます。

でも、そんな挙動にならぬテンポで・・・147に合わせる運転を行うと
どうでしょう・・・

公道で許される範囲で、しかも同乗者との車内でのコミュニケーション
を失わない範囲で・・・147は充分にスポーツしてくれます。

アルファは基本的に運転そのものを愉しむ車だと思います。

独りで究極の走りを実現する車ではなく、運転と言う人生の喜びの一つ
を同乗者と分かち合う為の車だと思います。

アルファの助手席にお気に入りの女性を乗せて、柔らかな足回りにて
リラックスして頂き、時には吠えるエンジン音で聴覚を刺激し解放感を
与え・・・

ほんでもってその女性とベットイン出来れば、それはスポーティな一日
ではあ~りませんか(笑)。

日本人である私にはアルファやランチャ、マセラティーとかが持っている
伊達な色気には太刀打ちは出来ません。

でも、その色気の中にあると思われる”人生の愉しみは一方向ではな
いのだから、気楽に参りましょう”と言う様な感覚はとても大切な事であ
ると思うのです。

アルファは・・・いや、イタリアの車の多くは、昔からその事を所有する人
に語りかけている気がします。

最近のアルファオーナーは結構「いつかはフェラーリ」な方が多いと聞き
ました。

ちがうんだなぁ~、それは~(笑)

アルファの良さはフェラーリとは違うのです。昔から・・・

アフターパーツでレーシングカートみたいな足周りにしてしまって、公道
での乗り心地に辟易しながらも、それがスポーティだと信じて疑わない
方々・・・

だったらもっと違う車にお乗りなさい。


アルファの本質はそこにはないのです~顔2


この記事へのトラックバックURL

http://kin147.mediacat-blog.jp/t34000
この記事へのコメント
一時の憧れの車。
遊びで書いた小説に登場させた。真っ赤なやつを。
今日の北山通を東に向かって。私は助手席。
Posted by 生田生田 at 2009年03月28日 13:25
五木寛之氏の「雨の日には車を磨いて」に出てくるジュリエッタ・スパイダーが私のフェイバリットアルファです。

主人公がジュリエッタのオーナーと夜間に箱根をドライブするシーンに
憧れて、何度も深夜に仙石原辺りまで足を延ばしておりました。

背中に天使のタトゥの入った女性と当時の愛車マスタングGTで霧の
箱根を走った事が忘れられない思い出です。
Posted by kin147 at 2009年03月28日 22:48
五木さんは、目下の小説 親鸞 で本当に嫌いになってしまった。
Posted by 生田生田 at 2009年03月28日 23:25
五木氏の作品を総て読破している訳ではないものですから、何とも
申し上げ様がないのですが、私、高校が曹洞宗の学校でしたので、
所謂自力での仏教観を授業で学びましたが、どうにも腑に落ちない
気持ちをいつも心に抱えておりました。

で、実は家の宗派は真宗(東本願寺)であり、他力と言う観点での
宗教観を学ぶ為に読んだ本の中に五木氏の文章もあった訳です。

他力本願と言う言葉はとかくマイナスに捉えられる事が殆どであり、
かく言う私もずっとそう受け取っておりましたけれども、「エゴの喪失」
と言う観点からは私の心には禅の精神よりもずっと受け入れやすい
スタイルだと思っております。

人間の力・・・意思・・・意向・・・決意・・・それら総ての自力が全能だ
と信じるエゴからの脱却が少なくとも私には必要です。
Posted by kin147 at 2009年03月29日 21:14
私は、浄土宗の学校卒業で、東本願寺の檀家です。時代の流れが違っていたら、本願寺の僧になっていたかもしれません。なので、この件を書くと長くなるので。
いずれ、私のブログにそういった話を書いていくと思います。
 阿弥陀さんの本願は、全ての人を浄土に招くこと。ということも・・・

>それら総ての自力が全能だ・・・
 ある種の考えだと、全てのことは弥陀の計らいにて・・
 ただ、矛盾の多い言葉ですが。
 知ったかぶりで書いているよう野も割れるかもしれませんが、
 親鸞研究は、おそらく私が死ぬまで続くとは思っています。
Posted by 生田生田 at 2009年03月30日 12:42
なるほど!

善人なおもて・・・のセンテンスの解説を初めて聞いた時の衝撃は未だに忘れられません。

父が1992年に亡くなり、東本願寺に永代供養した頃になって、やっと
私は真宗に心惹かれる様になりました。

生田さんがブログで語られる時を心待ちにしております!

※うちの家系は京都ですので、「お東さん」 「親鸞さん」と親愛を込めて
 呼んでおります(笑)。
Posted by kin147 at 2009年03月30日 22:00
ほんの少しだけ、今日のブログに書きました。
実は、目下、歎異抄を読んでいます。その中に悪人往生が書かれていますが、親鸞の書物には出てこない言葉でもあります。(と、歎異抄も含め。今までの書物などで知ったことです)
 正信偈 和訳をお読みなったことがありますか?漢文のままでもじっくりと読むと、お分かりだと思いますが、法然さんが登場します。
Posted by 生田生田 at 2009年03月30日 22:12